【雑記】思い出を糧に今日を生きるということ

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この3連休で高校のバレー部OB会に参加するために大阪に帰省した。
土曜日は横浜に出向く用事があったので、夜に移動して、夜通しいとーちゃん(@saiut)と飲み明かした。

その後漫画喫茶でシャワーと仮眠をとって、昼過ぎに梅田を後にしてOB会へ。既に同期や先輩が殆ど来なくなったOB会に行く目的は、かつて自分がバレーを教えていた世代に会いたいから。

現役との交流会みたいなのもあるんだけど、最年長のおっさんがそこに顔を出すのはなんだか恥ずかしかったのでOB対現役の試合から参戦。男子で1セット、女子側で2セットプレーしたんだけど、増えすぎた体重と1年ぶりのバレーでボロボロ。。それでも、なんとか長年の経験と省エネおっさんバレーで取り敢えずは頑張れましたとさ。

その後、同期2人と合流して終電まで飲んで、久しぶりに実家に帰る。
月曜日は昼まで実家にいて、母親とアレコレ会話をして、大阪を後にした。 

■母校にて、女子バレー部のコーチになる

僕は中高6年間バレー部に所属して、大学時代は母校の男子バレー部のコーチをやることになった同期の補佐役として指導にあたり、大学4回生の時に顧問の先生が異動して指導者がいなくなった女子バレー部のコーチになった。コーチになってからの1年、ゼミとバイトの時間以外はほぼ全ての時間を女バレ(ときどき男バレ)の指導に当てた。

コーチは就職を機に一度退いたが、その後東京と大阪を月2回程度行き来する形で復帰して、断続的ではあるけど社会人3年目まで続けることになった。

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男バレの指導をやりはじめてから、色んな本やWebサイトでバレーの理論を勉強して、実際に自分でもプレーをしていたので、女バレのコーチを始めた頃には下手くそなりに知識はそれなりに付けていた。

コーチ時代には常にノートを持ち歩き、その日にどんな練習をやろうかとか、どういうことを話そうかといったことを事前に書き、実際に考えていた練習メニューの問題点や、生徒のプレーや様子など気がついたことなどをメモしたりした。時折新しい練習の着想を得てはノートに書き記して練習に取り込んで行った。授業の予習復習なんて一切やらなかったのに、何故かこっちはこういうマメな作業が苦にならなかった。

コーチをやりはじめた大学4回生と言えば、お世辞にも人として成熟しているとは言いがたく、生徒達とは何度も喧嘩したし、関係がぎくしゃくすることも少なからずあった。もう少し僕がしっかりしていれば、生徒達に迷惑を掛けずに済んだのかもしれない。

■今なお眩しいあの頃の記憶

僕にとって、コーチ業は本当に楽しい経験だった。
色々しんどいこともあったけど、その100倍は楽しかった。 

足掛け3年で4代にわたりコーチとして関わることができたのだけど、どの代の子もとても真剣だったし、今思っても非常にハードな練習に文句はたれていたがしっかり取り組んでくれた。一生懸命取り組んでくれるあの子達の想いに応えたいと思い、少しでも良い練習メニューを考え、少しでも良いアドバイスをしたいと兎に角がむしゃらに取り組んだ。

特に、大阪と東京を往復するようになってからは、横浜の自宅に帰ってからデータ分析をしたり、大阪にいる間に言えなかったことや試合のフィードバックをメールしたりもした。遠く離れてコミュニケーションが取れない部分をなんとか埋めようと必死だった。

あんなに沢山腹の底から笑ったり、全力で泣いたりする経験は後にも先にもこの期間だけだった。あの子らも僕も全力で取り組んでたから、嬉しいことはめちゃくちゃ嬉しかったし、悔しいことは死ぬほど悔しかった。試合後の反省で、感極まって泣くことも1度や2度ではなく、良い試合の後には「北さん、泣いても良いですよ」なんて茶化されることもあった。

今でも目を閉じれば、はじめての公式戦で何もできずに悔しさのあまり駐車場の隅で泣いていたキャプテンに成長曲線の話をしたことや、かなりハードな振り方をしていたワンマンを自ら志願してきたリベロの真剣なまなざし、春高予選でエースが私立の強豪校相手にスパイクを突き刺した痛快な場面、僕がコーチとしてベンチに入る最後の試合で必死にボールを追いかけてベンチにつっこみかけたレフトの鬼気迫る表情など、様々な思い出が甦る。

ピンチサーバ、ピンポイントブロッカー/レシーバーの役割を与えていたものの試合になかなか出してあげられなかったベンチのメンバーが、引退試合でそれぞれの役割をしっかり果たすプレーをしてくれたとき、僕は思いっきり両手の拳を大きく振り上げて「よっしゃーー!」と歓喜の声を上げたが、それ以上に大きな歓声がベンチの内外にいたチームメートから上がった。人数もそこそこ多かったとはいえ、うちのチームのベンチ内外からの応援は大阪一だったと自負していた。

■社会に出て、苦しいときに支えになったもの

コーチを続けていた社会人2年目や3年目というのは仕事で色々と辛いことが多い時期だった。

しかし、大阪に帰って女バレの皆に「頑張れ!諦めるな!」という自分が、目の前の困難から逃げることはできなかったし、ひとたび大阪に帰れば自分でも驚く程に何事も無かったの様にコーチの顔になることができた。自分の事でいっぱいいっぱいになりかけていた頭は、即座に彼女らの為に何ができるかを考え出した。練習で、試合で、頑張る女バレの皆の姿に何度となく勇気を貰い、次の日からまた、仕事へ前向きに取りくめるようになっていた。

この時は既に引退していた、大学4回生の頃の女バレの皆との思い出の数々も、僕に力を与えてくれた。彼女らと過ごした時間は、どんなに辛い状況でも、真摯に向かい続ける限りいつかは道が拓けることを教えてくれたし、頑張った分だけ後でめちゃくちゃでかい達成感や成長を与えてくれることも僕は彼女らから学んでいた。

励ましていたのか、励まされていたのか。
教えていたのか、教えられていたのか。

僕は3年という月日の中で、沢山の思い出を得ただけでなく、人としてとても成長することができたし、全力を尽くすことの意味やそこから得られるモノの大きさを知ることができた。それは時に心の支えとなり、時に沢山の勇気を与えてくれた。

■思い出を糧に今日を生きるということ

女バレのコーチになってから9年が過ぎた。コーチとして関わった殆どの子が、既に社会に出ている。OB会でそんな彼女らの成長した姿や、元気でいてくれる姿をみられることがただ単純に嬉しかった。何だか気恥ずかしくてろくに口もきけなかったけど、かつて全力を尽くした体育館で、彼女らと一緒にバレーが出来るだけでとても幸せだった。

思い出に浸ることはとても心地良い。
あの頃は良かった、楽しかった、できることなら戻りたいと願う。

でも、僕らは今日という日を生きていて、
OB会という日が終われば、またそれぞれの日常へと戻っていく。 

これから先も、たくさんの困難にぶちあたることと思う。
そんな時、頑張った日々の思い出はきっと心の支えとなるだろう。 

全力を尽くし、心から泣き笑い、輝かしい青春を過ごした彼女らであれば、
思い出を糧にきっと素晴らしい人生を歩んでくれると信じている。

○○○

遠い昔、ある4月の夕暮れ時、

「もしよかったら、君らのコーチやらせてくれへん?」

そう告げたあの日以来、僕の世界は一変した。
本気で楽しくて、本気で悔しかったあの日々の思い出と共に、
僕は今日という日を一生懸命に生きたいと心から願う。 

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