いつか見たはずの空が違って見えたのは何故だろう

GW期間中に父方の実家である岡山と、母方の実家である奈良、そして自分が生まれ育った自分の実家ともいえる大阪の3箇所を回ってきました。

なんというか、色々思うところがあったので、このモヤモヤしていてどこかノスタルジックな気持ちを書き記して起きたいと思います。(旅行記は別途)

ゆっくりと変わりゆく景色、でも確実に違う景色

今回、父が生まれ育った岡山の実家に訪問したのは約15年ぶりのこと。父方の祖母が健在だった頃は毎年の様に訪問していたのですが、高齢の祖母が大阪で暮らすようになってから段々と足が遠のきました。

昔遊んだ山も川もそこに変わらずあったのだけど、やはり記憶のソレとは多少のずれがありました。緑は深くなり、かつて見通しが良かった景色は、高くなった木々によって遮られてしまっていました。

今は人が住んでいないのだから当然といえば当然ですが、かつては生えていなかった草花が徐々に人が暮らしていた痕跡を包み込んでいくかの様に生い茂っていました。どこかラピュタっぽいですよね。

主には小学生時分の記憶の中の景色は、もっと広大に感じていた山野をとても小さく感じさせました。山が縮むわけはないので、やはり自分が大きくなった分だけ周りの物が縮んだように感じるのでしょう。

父親が周囲の反対を押し切る形で建て替えた母屋も、違和感の一つかも知れません。かつて祖父母が暮らしていた”田舎の家”は今は記憶の中にのみその姿を止めています。

何よりも、僕が結婚して、子供ができて、父親としてここに立っていることが一番の違いであるわけです。

中学生になったころ(23年前)から足が遠のいていたので、子供の時分の記憶から一気に父親としての自分の記憶にジャンプした訳です。

今はまだ自分の父親が健在なのですが、将来この土地を相続する日がやってきます。目下の悩みは墓の管理と草刈り。

横浜からはどんなに効率良く移動しても4時間以上掛かりますし、新幹線や飛行機とカーシェアリングを乗り継げば家族で往復で7,8万円は必要になります。まぁ、そういう現実は追々考えるとして・・

かつて、盆暮れ正月に大阪の実家から岡山の田舎まで家族4人と犬猫で出かけ、祖父母と過ごし、親戚のお兄ちゃんや同世代の子供達と遊んだ景色は、変化としては実にゆっくりと、それでいてすっかり様変わりしてしまった様に感じました。

祖父母が鬼籍に入り、親戚が集まることがなくなる、そして僕も両親も1世代分歳を重ねた。景色が様変わりしてしまった様に見えたのは、見た目の変化以上に僕や僕の親戚の状況が変わってしまったことによるのだろうと思います。

いつか見たはずの空

岡山という土地は、実のところ遠い子供のころの記憶だったのですが、大阪や奈良というのはもっと近くて、僕が東京に出てくるまでそこに暮らしていたという明確な手応えがある場所です。

地元にでっかいCainzができていたり、コンビニが増えていたり、地元の町にどんどん若い人達が引っ越してきているとかで新しい家々が立ち並んでいたり・・まぁ、地元が寂れるよりは活気がある方がいいんですけどね。

それでも、バブル崩壊で空き地だけが残ってしまった宅地造営地が20数年掛けて埋まりつつある様子も、駅の新しいロータリーも、僕の子供時代の記憶と大きな乖離があるなーっと。まぁ、ハルカスで有名な天王寺・阿倍野界隈は最早別世界な訳ですが。

昔父親が連れてきてくれたという大阪自然史博物館。全く記憶が無いんですけど、懐かしそうにしている父親を見ていると記憶がないとは言いづらい・・。

今は親子3世代で来ちゃってるわけなので、これはこれで隔世の感。

恐竜の骨格標本に大興奮の息子氏もいつか将来「昔、大阪の自然史博物館にお父さんと大阪のじいさんと行ったん覚えてる?」と聞いても「覚えてない」と答えられる日が来るんだろうなぁ。

でも、それでいいんだと思う。今の僕にとって、今の息子氏と過ごす時間というのは本当にギフトで、この記憶は息子の為と言うよりも僕の為にあると思っている。4歳の息子氏はいつかはきっと忘れてしまう、忘れるぐらいに素晴らしい人生を送ってくれるならそれでいい。僕は忘れたくないと切に願うから、写真や映像になるだけ残しておきたいなぁと。

長じた息子氏が大阪を訪れたとき、記憶の奥底に微かに残る原風景、僕が岡山の土地で感じたそれに近いものを感じてくれたなら、素敵なことだなと思います。

大阪にはいくつかの緑地公園があり、僕も子供のころにいくつかの緑地公園で遊んだことをうっすらと覚えています。

大泉緑地というところによく遊びに行っており、そこのアスレチックが大好きで、多分生まれて初めてコンビニおにぎりを食って、海苔がパリパリで驚いたことを何故か鮮明に覚えています。こういうスポットに鮮明な記憶って面白いですよね。

思い出を遠く感じることの意味

大阪を後にして、奥さんが何故かネットで見つけて「ここに行こう!」と大プッシュしてきた奈良健康ランド。奇しくも、僕が子供のころに何度も遊びにいった奈良の祖父母の家の近くで、ここの空もそれこそ何十何百と見てきたわけです。

子供のころに、よく祖父母に連れられてこういった複合型の温泉リゾートに行ったのだけど、今は息子氏と奥さんと3人。設備は新しくなっているし、周りの景色も変わっているけれど、それでもどこか懐かしさを感じずにはいられませんでした。

窓から眺める景色も、露天風呂から見上げる空も、いつか見たはずなのに、やはりどこか遠く感じてしまいました。でも、その正体は旅の終盤にはおおよそ理解できていたように思います。

僕には、いつか見たはずの景色や空を懐かしく思える素晴らしい子供時代の思い出があって、それを遠く感じるほどに新しい経験を重ねて来て、そしてそこに家族と共に訪れて懐かしさを感じている。

それってとても幸せな事なんじゃないかって、僕は思っています。

さいごに

元々はただの帰省のつもりだったGWですが、奇しくも自分にとってのルーツを辿る旅となりました。子供のころの思い出という宝石を拾い上げる度、家族との時間を大切にしたいという想いが強くなりました。

それをくれた祖父母や両親に感謝をしつつ、今度はそれを自分が自分の家族に還していく番。息子氏はいつかは忘れてしまうのだろうけど、きっといつか祖父母・両親と見たはずの空に想いを馳せる日が来てくれるんじゃないかって思っています。