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僕がサウナやキャンプに惹かれるのは「追いかけられている事柄から離れる」為なのか知れない

サウナにハマりはじめて2年程が経過しました。僕のルーティンは

  • 10分サウナ
  • 1〜2分水風呂
  • 5分前後、感覚が戻るまで外気浴

を3回繰り返すというもので、概ね1時間弱程度が目安となります。

隙あらばスマホをいじってTwitterに興じ、iPad miniで電子書籍を読み、MacBook Proやポメラで何かしらアウトプットを行おうとする自分としては、1時間程度”も”ネットやインプット、アウトプットを行わない時間を持つというのはかなりレアな状況であるわけです。

ランニング中ですらオーディオブックを聴いていますし、運転中にPodcastを録ろうとするあたり、つくづく何かをしてないと気が済まない自分の性分に少し辟易もしますが、だからこそサウナやキャンプといった「何もしない時間」を意識的に作っているのかもしれません。

何もしない時間を作るための仕掛けを日常に組み込む

サウナで心ゆくまで考えては考えた事をぶっ飛ばす

では、サウナに入っている間は本当に何もしていないかと言うと、実はそんなことはなく、だいたい仕事のことを考えたり、ブログに何を書こうか、Podcastで何を喋ろうかみたいなことを考えています。

スマホが手元にあると、ついつい情報を摂取してしまい注意や思考がそちらに向けられてしまうのですが、そういう思考の邪魔をするものが何もない状況であるため、心ゆくまで考え尽くせます。

ただ、考えを書き出したりメモに残したりはできないので、同じ事をグルグル考えては、熱くて段々考えられなくなる→冷水でシャキッとして万能感すら感じてくる→外気浴でキモチイイィィィィッ状態で思考がぶっ飛ぶ・・みたいなことを繰り返すので、決して生産的とはいえません。

むしろ、仕事のことを悶々と考えていたとしても、10分程度で強制的に一度水に流されてしまうので、3回もそれを繰り返している内にすっかり「まぁ、いっか」と思えてしまうのは大きなメリットではないかと思います。

キャンプをしていると追い立てられている自分が滑稽に思えてくる

キャンプでは黙々と設営をして、焚き火を起こして、自然の音と焚き火に癒やされている内に段々と「なんでキャンプにきてまでネット見てるんだろう、仕事の事考えてるんだろう」みたいな感じで、森の中でまで何かに追い立てられている自分が滑稽に思えてしまいます。

焚き火を眺めつつ、澄んだ空気と森や川の奏でる音を堪能し、頭を空っぽにして何もしないという最高の贅沢を満喫する。そのためにキャンプに来たというのに、何に怯え、何を気にしているんだと。

利便性や娯楽を求めて、いつでもどこでも情報にアクセスできてコミュニケーションが取れる世界を作った人間が、それらから逃れるためにわざわざ「何もしない時間」を求めて不便なキャンプを行うというのはどこか矛盾しているように思います。

それにしても、スマホを触らず、ただ思いつくがままに思索にふけり、その思索すらもやめてしまって頭が空っぽになった時、それまで引きずっていた慢性的な頭痛や、胸の奥の不安の塊がなくなってしまうので、なかなかキャンプの効能も馬鹿にはできません。

普段からネット見なきゃいい、仕事の事忘れるようにしたらいい・・と言うのは容易いですが、一度手にした利便性や娯楽を手放すことは難しく、娯楽と共に仕事の情報までリアルタイムに届いてしまうので、そこに注意を取られない様にするためには大きな意志力を必要とします。

だからこそ、キャンプの様な仕掛けが必要なのです。追い立ててくる何かから一時でも逃れられるように、沢山の非効率と不便をつみかさね、ガラリと環境を変え、半ば強制的に情報を遮断する。仰々しい言い方をすれば、これは一連の儀式であって、そうまでしてもなお、追いかけてくるものから完全に逃れることは難しいのです。

「何もしない時間」を日常の中に設けよう

わざわざサウナやキャンプに行くのは面倒くさいと思う人は、ただスマホを持たずに散歩に出かけるだけでも良いかもしれません。ランニングや山登りにも似たような所はあります。人それぞれ、儀式のProcedureは異なって然るべきだと思います。

スマホや通信回線の進化により、仕事は益々僕らのプライベートな時間に入り込み、情報の波は容赦なく僕らを飲み込むようになってしまいました。おそらく「何かしなくちゃ」病に掛かってしまっているのは僕だけではないはずで、隙間時間という隙間時間は既に埋め尽くされていると思います。

利便性や娯楽を求めた結果として、アテンションは外部からの刺激や仕事の心配事に奪われ続け、じっくり考えるための時間や自分の内面に向き合うための時間はどこかに追いやられてしまいました。

日常の中に「何もしない時間」という余白を意図して設けることで、その時々に考えていることを深め、考えるべきことが積み上がるのを防ぎ、不安を不安のままにせずに処理したり、問題から離れて渦中の自分を客観視することで心の余裕を生み出す事につながるんじゃないかと考えています。

僕がサウナやキャンプにハマったのは、気が済むまで考え尽くしつつも、最終的には頭を空っぽにする「儀式」としてうまく機能している実感故であろうと思います。

さいごに

スマホを使い始めてから15年ほどが経過しました。それ以前と比べれば明らかに利便性が高まり、より多くの情報や娯楽にアクセス出来るようになりました。効率性を求めすぎた結果、気がつけばすっかり自分の生活の中から余白が消えてしまった様に感じています。

この記事もまた、サウナに入っていてふと思った「1時間もスマホを触らずに考え事にふけれてるって凄い」という気づきを掘り下げて書かれた「余白の産物」です。着想の良し悪しはさておき、余白から生み出された何かしらの考えを世に出せたいう証左にはなろうかと思います。


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