少しけだるい日曜日の午後、公園で遊ぶ子供たちを眺めながら、慢性的な頭痛と胸に居座り続ける不安の塊を感じつつ、憂鬱な気分を引きずっていた。快晴の青空と子供たちの無邪気な笑い声と比して自分はあまりにも陰鬱に過ぎ、そのコントラストで余計に苦しくなった。
今年の僕の目標が「心理的安全性を確保して心穏やかに生きる」であることは以前述べたとおりが、何故だかそれがとても難しい事のように感じている。何をどうすれば、心理的安全性が確保できるのかさっぱりわからない。
今更だけど今年の目標を定めて人生を変えてみようと決意した話ただ心穏やかに普通に働き、良い仕事をし、家族とともに笑い、日々コツコツと努力をし、己の決めた道で技術を磨く。そんな平凡で平和な時間を過ごしたいだけなのに、それがひたすらに遠く感じる。
今はどうだ、不安にさいなまれ勉強はおろか読書に打ち込めず、種々のトラブルに思い煩って思考思索の時を持てず、常に体調が優れず疲れ果ててトレーニングに取り組むこともできない。家族には心配をかけ、体調が優れず何もできずに迷惑をかけることも多く、心配事に支配されて笑顔が思い出せないこともある。
今の自分の状況を、ただ心理的安全性の欠如で片付けてしまうのは良くないのかもしれない。もっと物事を細かく捉え、分析し、対策を講じるべきなのかもしれない。
ただ、今精神的均衡を保てているのは中長期的に物事を考えることを放棄した賜である。今日を、明日を、一週間を生き延びる。いまはそれで手一杯であり、この戦略的思考停止こそが自我を守るための唯一の道であった。
そして、もう一つの問題は今の僕がひどくネガティブにものごとを捉えてしまう点である。ちょっとしたことですぐに「失望されている」「僕は迷惑ばかりをかけている」「僕のような無能はここにいるべきではない」と考えてしまう。これが認知の歪みであることは自分でも分かっている。
うつ病のせいで認知がゆがんだのか、認知のゆがみによってうつ病になったのかは定かではない。或いは長年培ってきた「逃げてはならぬ」「責任感を持て」「常に自分を戒めよ」といった価値観によって苦しめられている面もあるかもしれない。
いずれにしても、中長期的な戦略を持つとか、問題を分析して適切な対処を取るとか、そういうことが難しくなってしまうのもこの病気の一つの側面である。
2年前に休職をした時には何度となく神社に足を運び「普通に働けるようになりますように」と願掛けをしつづけた。今年の初詣でも「何とか体調を崩すことなく、何とか心理的安全性を確保して心穏やかに過ごせるようになりますように」と願った。
この2年で、体調は大幅に回復した。確実に昨年の7月までは右肩上がりの上り調子だった。なのにここ半年は、平穏な日々など消え失せ、体調も日に日に悪化していき、今ではもう「ただ心穏やかに過ごしたい」と願うことが何だかとても贅沢なことの様に感じるようになってしまった。
これからどうすべきか。答えはまだ見つからない。ただ座して(比喩的な意味で)死を待つつもりもないが、かといって抜本的な解決策が見つかっているわけでもない。もうこのゲームから降りたって良いんじゃないかという想いと、まだ中途半端に投げ出したくないという想いがぶつかり合い、とりあえず納得できるまで頑張ろうという中途半端な妥協案に落ち着く。
ただ一つ言えることは、「心穏やかに過ごしたい」という願いを諦めるべきではないという事だと思う。誰も皆、それぞれの人生の中で苦悩を抱えながら、それぞれの幸せを実現するために頑張っている。それなのに僕自身が自分の幸せを願わなくてどうするのかと。
これからも暫くしんどい状況は続いていくと思う。正直、先は全く見通せないし、解決の糸口も見つかっていない。それでも、僕は心穏やかに生きることを、幸せになることを、生き延びる事を、諦めずに希求しつづけたいと思う。
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