結構長いこと幸せとは何か、自分が生きている意味は何なのかを考えてきたのですが、答えが出ぬまま無理をし続けた結果、メンタルが壊れて休職⇒復職して1年半程が経過しました。
人生の意味を考えると言えば聞こえが良いですが、今にして思えば「意味ある人生にしなければならない」という想いに駆られていた様にも思います。
自己啓発そのものが悪いわけではないと思いますが、僕の場合はあるべき姿と現実のギャップに苦しみ続ける「ジコケイハツの呪い」に掛かっていたとも思います。
幸せになるために頑張ることと、その為に今の幸せを犠牲にすることのトレードオフ
志望校に受かったから、良い仕事に就けたから、結婚ができて子供ができたからそれで幸せというゴールがあるわけではありません。その先にも人生は続きます。
幸せになりたいと思って何かを目指す際に、そのゴールを達成或いは達成できなかった先にある人生の事を失念していることはままあります。
仕事ができるようになることは楽しいことかも知れませんが、成長に伴って責任やプレッシャーが増していくこともあります。評価や昇給は能力に対して行われるのみならず、担務することになった新たな責任への報酬の側面もあります。
良い会社に入って、もっと仕事が出来るようになって、もっと給料を貰って、幸せな家庭を築いて・・・その結果幸せになれると僕らは思い込んでいるだけかも知れない。そんな疑問が湧いてきました。
きっと「幸せになるために頑張る事」は間違いではないのかもしれませんが、「幸せになるために頑張ることで今の幸せを犠牲にする事」については少し考えた方が良いのではないかと、休職を機に思う様になりました。
幸せを感じられる行動を制限しない
休職後、最も大きな行動変容は
- 無理をしない
- 意識的にダラダラする
- 意識的な回復を心がける
- 自分が好きなことをやる
ではないかと思います。一つには以前ほど無理が利かなくなったというやむを得ぬ事情があるのですが、それは同時に「もう二度と自分を壊したくない」という強い恐れの為でもあります。
以前の僕であれば「だらだらゲームをする時間があるならブログの一本でも書くべし」みたいな思考パタンでしたので、だらだらテレビを見たり、ゲームをしたりする時間を「ムダ」の2文字で片付けてしまっていました。
仕事に疲れ果てて、精神的にもちょっとキツいとき、わずかばかりの自由時間に気分転換とストレス発散ですら「ムダ」と切り捨てていた事は、今にして思えばかなり危険な行為だったと思います。
ここ1.5年の間に回復や気晴らしの観点から、以下のActionを取ることが増えました。
- キャンプグッズを買いそろえて、自然の中などで焚き火を見ながら頭を空っぽにする時間を持つようになった
- 気晴らしにサウナに行くことが増えた
- やりたいゲームがあるならアウトプット量が落ちてもゲームをやることを自分に許せるようになった
別に難しいことや、凝ったことではありません。自分がやりたいなと思ったときの「今は我慢して、●●すべき」をやめて、ある程度自分の欲求に忠実になっただけのことです。
幸せや人生の意味について考えるよりも幸せに感じることをする
刹那的な快楽主義者という表現をすると、あまりよい印象はないかもしれませんが、私の場合は
- 家族と遊びに出かける、旅行に行く
- おいしいものを食べる
- 自然の中で焚き火をしたり読書をしたりする
- 星空を撮影しに行く
- 疲れたらサウナに出かける
- 自分がやりたいと思った事は三日坊主を恐れずやってみる
みたいなことに幸せを感じることができた為「今はそんなムダなことにお金や時間を使うべきではない」という抑制を意識的に排除したとう次第です。
幸せになるために努力をする事、その為に今の愉しみを諦める事によって「幸せを感じる」ことが損なわれているのであれば、どこか本末転倒感があります。まさに7つの習慣で紹介されていた漁師の話そのものです。
時に人は、幸せや人生の意味を考えたり、その為に努力をするより先に、本能的感覚的に「幸せを感じられることをする、大事にする」方が良いのではないか。
最近の自分はそんな風に考えながら、割と短絡的な生き方を良しとするようになりましたが、今のところ困ったこともありませんし、調子も良いように思います。
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