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正しく一生懸命に頑張るというのは、難しい

最近とみに、正しく一生懸命に頑張るというのは難しいなと思います。

懸命に頑張る事は美徳であると子供の頃から教えられて、責任を持ってどんなときでも自分の持ち場を死守する、逃げてはならない、武士は”一所懸命”であらねばならない・・みたいな想いが無かったかと言えば嘘になります。

若さに任せて、無理を通して、どんな場面でも気合いと努力と根性で何とかしてきた成功体験が、アラフォーになって徒になるとは、若かりし頃には思いも寄らぬ事でした。むしろ、38歳になるまで心の大けがをしなかったことは、実に周りに恵まれていたからだなとしみじみ思います。

「辛くなったら逃げれば良い、しんどくなったら休めば良い。」

そういうアドバイスを下さる方も結構いて、渦中の僕にはそれが「自分事」の様には思えなかったのだと思います。一所懸命に頑張ることに拘るあまり、逃げるという選択肢を完全に放棄してしまっていたのだと思います。

「責任ある行動」と「逃げないこと」はイコールではない

責任感を持って仕事をするということは、どんな場面でも決して逃げない覚悟を持って仕事をすることだと強く信じていました。そういう類いの人間にとって「休職」という選択は、例えそれが能動的に選び取った物でなくても、断腸の思いで受け入れる必要がありました。

休職に入ってからしばらく「自分はなんて無責任で無能な人間なんだ」と自分を責め続けたことを覚えています。その「一所懸命の呪い」が解けるまで、大凡1週間程度を必要としました。

恐らく、僕は復職してからというもの、随分と手抜きが上手くなったように思います。傍目に見ればちょっと無責任に見えるかもしれないぐらいです。(というのも自分の思い込みかもしれない)

かつては抱えきれない仕事に追われ、長時間働き、昼夜問わず仕事の事ばかりを考えていました。コロナ禍でテレワーク主体となったことで朝の8時から夜中の1時ぐらいまでずっと書斎にこもりっきりという日々を過ごしました。自分が何とかしなければ、自分の後ろに防衛線はない。もっと頑張らないと、もっともっと・・。

毎晩悪夢にうなされすぐに目が覚め、寝てる場合じゃないって焦燥感と寝なくても大丈夫みたいな変な万能感の中で無理に無理を重ねていました。常に頭痛にみまわれ、胸の奥に不安の塊がずっしりと居座って、身体は微熱を発し続けるという形でアラームを上げ続けていました。そしてある日、当然のことながら限界を超えてしまいました。

あの経験があるからこそ、責任ある行動というのは、身を粉にして働くとか、責任を感じて辛くなるとか、そういう限界を超えて頑張るということではないと思えるようになりました。頑張りすぎてコンディションを崩し、動けなくなったり働けなくなったりすることの方が、よっぽど周りに迷惑を掛けてしまうわけですから。

復職して2年経ちましたが、未だに僕は寛解には至れていません。1年半掛けて徐々に回復を果たしてきたにも関わらず、昨年の夏に「挑戦」を選択してしまい今は業務量もプレッシャーもうつ病を発症した2020年と同じか、それ以上にしんどい状況になり、むしろ悪化の一途です。

そんな中で、僕が取ったスタンスは「いのちを大事に」という、かなり「逃避的な戦略」です。

  • 美味しいごはんを食べて、ちゃんと寝る
  • しんどいときは仕事を程々にして閉店ガラガラ
  • 無理なもんは無理と諦める
  • 明日出来ることは明日に先送る
  • 自分の好きなことをやる時間をちゃんと確保する
  • 自分がやれるだけのことをやって駄目なら諦める

自分で「しんどい状況」を選択しておいて、行動が伴ってないなんて無責任すぎる・・と思われるかも知れませんが、今の僕にとって最も重要なことは再度自分を潰さないことであり、それが僕だけでなく仕事の関係者にとってもメリットだと信じています。つまり、この逃避的な戦略によって自分を生存させることこそが、最も「責任ある行動」であると僕は考えているわけです。

「一生懸命頑張れている」かは今の自分基準で考える

まぁ、それでも僕は自分が頑張っていないかと言われれば、胸を張って「頑張っている」と答えられると思います。毎晩仕事を終えるとヘロヘロになりながら、休日はぶっ倒れながら、このしんどい状況を7ヶ月生き抜きました。

正直「もっと頑張らないと」という思いがムクムクと湧いてくることもあります。かつての絶好調だった・・或いは無理に無理を重ねていた頃の自分と比べて、全然頑張れていないと感じることもあります。

でも、今の自分の心身の状態はあの頃とは異なります。自分が頑張れているかを計るときは、過去と比べてどうかではなく、今できる最大限の努力ができているかで計るべきなのです。今自分が胸を張って頑張っていると言えるなら、それはもう十分に「一生懸命に頑張れている」状態なのです。

他人からはあいつは手を抜いてるとか、無責任だと思われるかも知れません。それでも、自分が「やれるだけのことはやった」と思えるのなら、それで良しとすべきなのです。

正直な所、頭では他人の評価を気にするべきではないと分かってはいるのですが、そういうことを考えて苦しくなることがないと言えば嘘になります。他人の評価を手放すというのは、口で言う程簡単なことではないと思います。

ただ、人それぞれ、立場も違うでしょうし、これまで生きてきた環境や価値観も異なると思います。そういう多様なバックグラウンドの人が共生しているのが社会で有り、職場であるわけです。そんな中で万人に認められる「一生懸命な頑張り」を目指すことはとても過酷な道であるわけです。

限られた体力を温存し、一番大切なことに集中する

年齢的なものも在りますが、うつ病になって以来「仕事の体力」みたいなものが大幅に落ちてしまいました。前述の通り夜になると漏れなくヘロヘロになっていますし、週末は体調を戻すためにひたすら寝ていたりします。

なんでもかんでもがむしゃらに頑張れば良いとか、寝ないで徹夜でやっつければいいとか、土日働けば良いとかそいういうパワーハックはほぼ使えなくなってしまいました。(たまに発動させて土日反動で倒れ込んでしまうことはあります)

全方位に頑張れなくなった今、限られた体力の中で何をすべきかを見定め、いざというときの為に如何に体力を温存するかがとても重要です。

休めるときには積極的に休み、先延ばせる仕事は先延ばしてしまい、今重要な事トップ3ぐらいに狙いを定めてそこに集中的に頑張りを集中させます。まぁ、今ある程度自分に仕事の裁量があるから出来ることなんですが・・。

体力を温存するとか、先送りするとかってどこか「一生懸命に頑張る」からは遠いことの様に思うかも知れませんが、自分がしっかりと生き延び、コンディションを整え、重要な事柄をしっかり押さえていくことが何より重要で、そのための頑張りこそが「一生懸命に頑張る」ことだと僕は考えています。

こういう考え方ってスポーツだと割と普通で、野球のピッチャーががむしゃらに頑張って肩や肘を壊してしまわないように、球数を制限したり、しっかり回復させる措置を行ったりして、故障無く成果が出せるように全力で取り組むわけです。

さいごに

ここ2年の間に自分の「一生懸命に頑張る」ことの意味合いが大きく変わったと感じています。

  • 限界を超えて頑張るのではなく、限界を迎えないように頑張る
  • 他人の評価の為ではなく、自分が納得できるかを基準に頑張る
  • 何でもかんでもがむしゃらに頑張るのではなく、体力を温存し大切なことに注力して頑張る

僕自身がこれまで受けてきた教育、働いてきた労働文化によって築き上げた38年来の「一生懸命に頑張る」観によって、自分自身が苦しめられることも少なくはありません。気合いと努力と根性で何でも解決しようとする僕の中の昭和の残滓が「もっと頑張らねばならぬ」と囁きかけてくるのです。

とみに、正しく一生懸命に頑張るというのは難しいものです。


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