忘却は人にとって欠くべからず能力である。
人間は忘れることができるから、どんな辛いことがあってもまた前を向いて歩くことができる。
でも、本当は絶対に忘れたくないこともある。美しい想い出という名のモヤに隠されたくない、とても大切な記憶がある。
亡き祖父母と過ごした暖かな日々、奥さんと付き合いだした頃のドキドキ感、共に青春を駆け抜けた仲間と分かち合った歓喜の瞬間、そして子供と過ごす掛け替えのないごく平凡な日常。
それでも僕は大切なことを忘れてしまう
しかし、僕は忘れてしまう。
忙しさにかまけて仕事で頭がいっぱいになってしまったり、日々の悩みや思い煩いに気を奪われたり、どうでもいいような気晴らしや妄想に思考を占拠さたりしてしまう。
そして、毎日の中にもやはり、忘れたくないと願う時間があり、後悔に変えたくない時間がある。今を懸命に生きれば生きるほど、思い出は意識から遠のき、気が付けば忘却の彼方へと姿を隠してしまう。
生きているというのは、そういうことなんだと思う。
思い出にのみ生きることはできないし、生きていく内に次々と想い出が出来ていくことはたいへん喜ばしいことだと思う。
泣き出したくなる思い出との邂逅
そうやって毎日を生きていると、ふとした瞬間に忘れていた想い出と邂逅し、えもいわれぬ感情が想起されることがある。胸を締め付けられるような感覚に、泣き出しそうになる。
時が経てば、想い出のディティールは薄れていくし、美化もされる。時には都合よく書き換えてしまっていることだってある。
朧げになってしまった想い出は、それでも本能のレベルで感情を揺さぶる。何故だかわからないが、涙が止まらない。時に鮮明な記憶がもどることもあるが、多くの場合、その理由はわからずじまいだ。
そして、それがまた少し悲しい。
忘れてしまっても思い出せる様に、記録する
僕は自分の記憶力に全く自信がない。そのくせに、自分が日々懸命に生きていく中で、大切な記憶が押し流されてしまうことに、とても恐怖を覚えている。
だから、僕は記録を残す。
人よりも多く、写真を撮るし、時間も記録するし、メモも取る。
誰もがそうしたいわけではないと思う。記録は面倒であるし、記録したことが果たしてなんの役に立つのかと言われることもある。
しかし、僕のような大切なことひとつ覚えていられない、忘れっぽい人間にとっては、記録は2つ大きな価値を提供してくれる。
ひとつは、思い出との邂逅を果たすきっかけを与えてくれるということ、そしてもう一つが、朧げになった記憶の中の思い出にディティールを与えてくれるということである。
息子が3歳になるまでに撮りためた1万枚以上の写真は、怒濤のように過ぎ去った乳児期の息子との思い出を何よりも雄弁に語ってくれる。
いまの息子と変わらぬ年頃の自分を抱く祖父の写真は、数少ない祖父との思い出を捉えた一枚であるが、この一枚のお陰で僕は記憶の中に在りし日の祖父の姿を鮮明に思い出すことができる。
手帳への殴り書きが、タイムログが、一枚の写真が想起させる万倍の思い出の像と、時に大切な人の声色すらも再現する。
僕はよりよく思い出さんがために、記録をよく残したいと思う。
さいごに
思い出のために記録を取ると書くと、過去にすがっている様に映るかもしれない。実際、そう思われても、僕は一向に構わない。
僕は、これからも自分の大切な人たちと共に良い思い出を作り続けていくつもりであるし、それをよりよく思い出せる様、記録に残すつもりである。
忘れたくない思い出がこれまでに沢山あったということ、そしてこれからも忘れたくない思い出ができて、忘れまいと記録していくこと。僕の人生にとって、そのどちらもがとても価値あることなのだと思う。
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