凄い人、憧れる人を問われたとき、世界の偉人や素晴らしい成績を残したスポーツ選手、有名人、最近であればSNS上のインフルエンサーが挙げられるのは何故だろうか。
TVやラジオ、新聞、雑誌、書籍など商業メディアにおいて知名度や影響力は収益に直結することは事実だし、ニュースのコメンテーターに全く無名の人が出ていたとしても皆「この人誰?」となってしまうのもまた事実。
プロになった、MVPになった、金メダルを取った、世界一になった、ノーベル賞を受賞した、アカデミー主演男優賞を取った・・それは確かに凄い事だし、憧れる気持ちを持つのも分からんでもない。
それでもやっぱり、僕はもっと無名の、商業メディアには乗らないような普通の人々を、ヒーローとして称えても良いんじゃないかと強く思っている。
社会に出て家庭を持って親になった時に、自分の親の凄さを痛感した。夜泣きや深夜のミルクに睡眠時間は分断され、保育園や学童の迎えの時間ギリギリに駆け込み、突然の発熱に仕事を休まざるをえなくなる。働きながら子育てをするのはこれほどに大変な事なのかと。子供の将来の事を思えば、時には心を鬼にして叱る必要も有る。
皆それぞれの場所で、生きるために幸せになるために頑張っている。仕事をしていれば嫌なことも辛いこともあるけれど、それでも皆前を向いてまた仕事へと戻っていく。どんなにしんどかった仕事でも、自分の携わった仕事が世の中の役に立っていると感じられた時、それまでの苦労が報われた気がした。
この社会は色んな技能や才能をもっている数多の無名の人々が、額に汗したり時に涙を流したりしながら、懸命に生きた結果の末に成り立っている。皆それぞれに、嬉しいことや悲しいこと、楽しいことや辛いことを抱えながら、頑張ってそれぞれの人生を生きている。
それはもう、十分に凄くて素晴らしいことで、賞状も賞金もないけど「頑張ったで賞」を贈られて然るべきヒーローなんじゃないかと。特筆すべき成果がないとか、有名じゃないとか、何者にもなれなかったとか、そんなことは実に些末な問題で、毎日を懸命に生きてるあなたはそれだけでもう賞賛されるべきやろうと。
無名のヒーローと有名なヒーローの差なんて、たかが知名度。
僕はこれまでの人生で、憧れる人や尊敬できる無名のヒーローに出会ってきた。現在進行形で頑張っている無名なだけの家族や友人を知っている。願わくば、両親のような親になりたいし、かつて憧れた尊敬できる上司の背中に追いつきたいし、頑張っている友人の支えになりたい。
そして、時にはそんな無名のヒーロー達を称える声を発していければと思う。
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