ある晴れた小春日よりの日曜日、洗濯物を干して、散歩がてら買い物に出かけ、大通りをぶらぶら歩いて買い物を済ます。料理を作ってテレビを見ながらそれを食べる。
「あなたの料理は味が濃すぎる」と文句を言いながらも、それを全部平らげてくれる奥さん。確かに、奥さんが作った料理の方が美味しいことは間違いない。
ありふれた光景。ごくごく当たり前の日常。だけど、僕にとってはこういった「何気ない日常」が何よりも大切で、かけがえのない大切な時間なのだ。
後何千回、こういう時間を過ごせるかはわからない。10年間毎週末こういう時間を過ごしたら1000回、多分、実際にはもっと少ない。
家族構成も変わるかも知れないし、僕が単身赴任になったり、仕事が超絶忙しくなってこういう時間を取れなくなることはこれまで何度もあった話。もしかしたら、不慮の事故で僕が死んでしまうなんてこともあるかもしれない。
今日という日が過ぎれば、この日常を過ごせるチャンスは確実に1日減っていく。これは誰にも変えることのできない厳然たる自然の摂理である。
■「何気ない日常」があるから僕は一歩を踏み出せる
「何気ない日常」が大切だと気づいたのは、ある「特殊な状況」に陥ったときだった。その時は身体がどうしようも無いくらいに疲れ果てて、心が渇ききっていた。もう駄目かも知れないと、全てを投げ出して楽になりたいという衝動に駆られていた。
だけど、いつもと変わらない風景と退屈さすら感じる穏やかな時間を過ごしたとき、僕はただ、一人の人間として認められ、特別な事など何も求められない居場所があるということに安堵した。月並みな表現をすれば、「帰る場所」があるということが何より嬉しかった。
そうして、僕は一つ自分を奮起させるための理由がそこにあることに気づいた。はじめからそこにあったけれど、それまではその存在の大きさが分からなかった「何気ない日常」。それがあるからまた前を向くことができたし、それを失いたくないからまた一歩を踏み出すことができた。
■平凡で退屈なことは決して悪いことではない
何もかもが思い通りにいくことなんては滅多にない。ましてや、毎日が劇的でワクワクドキドキの連続なんてこともない。そんな毎日がつまらなくて、退屈だと感じることだってないと言えば嘘になる。
それでも、何もない日常では、何の気兼ねも無く頑張りたい事に打ち込めるし、自分が進みたい方向にいくことだってできる。夫婦揃って昼まで惰眠を貪ったり、一緒にビールを飲みながらテレビを見ることだってできる。
自分の意志一つで如何様にでも変えられるし、その時間を自分にとってかけがえのないことに費やすことだってできる。そう考えれば平凡で退屈なことは決して悪いことではないなと、最近思えるようになってきた。
何も手が付かなくなるほど思い悩んだり、悲しみに打ちひしがれることも無い。何かに駆り立てられたり、固執したり、嫉妬したり、怒りのままに周りを傷つけることも無い。ただ、選択の自由だけがそこにある平凡な日々の何とありがたいことか。
■横浜百景No.012 山手234番館
山手にあるこじゃれた建物、山手234番館。前々からこの素敵な建物はなんだろうと気にはなっていたんだけど、戦前に立てられ、1980年頃まで使われていた外国人向けのアパートだったらしい。こういう家に住みたいなっと。
朝香吉蔵の設計により、1927年頃に建築された外国人向けのアパートメントハウスで、横浜市に現存する数少ない遺構の一つ。 戦後の米軍による接収を経て、1980年頃までアパートメントとして使用された。
日々考撮とは?
日々考撮は、日々の風景と共にその日考えた事を思いついたまま自然体で綴る、プロトタイプ思考のアウトプットです。日々の「プロトタイプ」の地層から新たな着想と発展的アウトプットを生み出すことを目的としています。