小学生の頃、僕はTVゲームがないと死ぬんじゃないかって位のゲーム好きだった。
短絡的かもしれないけど、その頃の夢は「ゲームプログラマー」になること。
今風に言えば「ゲームクリエイター」だろうけど、当時はそんな言葉は無かった。
どうすればなれるのかわからなかったけど、 兎に角ゲームを作りたい一心で雑誌や本を読みあさった。中学生になった1995年、入学祝いとして10万円のDOS/Vパソコンを手に入れて、学割で購入したVisualBasic 2.0でプログラムの世界に足を突っ込んだ。
その少し前に「ドラゴンクエストへの道」という本と出会い、そこに描かれていた憧れの「ゲーム作り」の世界に魅了された。漫画故の脚色や創作もあるだろうし、当然美化もされている。しかし、大阪の片田舎で空想にふけることしかできなかった少年にとってはそこに描かれていた世界が全てだった。
それ以来、憧れの人は「中村光一」と「堀井雄二」になり、 僕はすっかりコンピュータの虜になってしまった。
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自分が生まれた1982年にPC-9801が発売され、その翌年にファミコンが発売された。
小学2年生に上がる頃、スーパーファミコンが発売された。
今思うとそういう時代だったのかもしれない。
TVゲームという新しいジャンルの娯楽が生まれ、人々は異様な熱気と高揚感に包まれていた。技術的には決して簡単ではなかったのだろうけど、まだ素人とプロの間に今ほどの垣根は無かったようにも思う。(だから、I/O誌への投稿で名を馳せた伝説の高校生プログラマー中村光一氏に憧れたのだと思う)
初めてのPCを手に入れた後、ASCII社の刊行する雑誌の投稿コーナーなどを見ながら、いつかは自分も雑誌に掲載される様な凄い作品を創って、プロとしてデビューするんだなんてことを本気で考えていた。
中学生から大学生に至るまで、プログラミング、DTM、CGと様々な事に手を出していくつか作品らしきものも作ることができた。傍目から見たらただのコンピュータオタクだったろうけど、今でもそんな青春時代を過ごしたことに後悔はしていない。
下手っぴだったけど、兎に角、無我夢中でコンピュータに向かって作品を作ることに打ち込んでいた。結局プロのクリエイターにはなれなかったけど、今にして思えば、凄く幸せなで有意義な時間を過ごせたとも思う。
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その後、「新・電子立国日本」の中で出会ったシリコンバレーの文化に感銘を受け、ゲームクリエイターからシリコンバレー型のITベンチャーを志すようになる。その頃からヒーローは「スティーブ・ジョブズ」や「ビル・ゲイツ」になって、ITと経営の両方を学びたいと思うようになる。
子供からの夢であったゲームクリエイターの道へ進むには、専門学校へ通うべきだったのだけど、結局家の事情や、自分の適性などを鑑みた結果、大阪の公立大学の経営学科への入学を決めた。大学を卒業した後は、ITベンチャーに入社するでも立ち上げるでも無く、SE職としてメーカーに就職し、上京した。
進路の決定を間違ったとは思わないけど、ここに少なからず親の意向や自分の見栄みたいなものがあったのも事実だと思う。あまり認めたくは無いけれど「どうせ無理だから」と諦めた部分もあったろうし、そんな中での最善解を出したとも思う。
もしも、自分の周りにゲームクリエイターやらITベンチャーを志す様なタイプの人間がいて、お互い夢を語り合ったり励まし合ったりしていれば・・なんてことを妄想することもあるけど、タラレバなんていくら考えても無駄な事なのも分かっている。
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社会に出てもうすぐ丸8年。
最近仕事でコードを書くことが多いのだけど、時折胸の奥が熱くなる感覚を覚える。
確かに夢だったゲームクリエイターでもなければITベンチャーでもないけれど、あれほど恋い焦がれたコンピュータを用いる仕事に就くことができた。8年の中でスキルを磨き、経験を積むことができたし、何より僕はこの仕事に誇りを持っている。
仕事を通して多くのことを学ばせて貰った。学生の頃には見えなかった世界が見えて、できなかったことができるようになった。幸いにして人生の伴侶とも出会い、多くの仲間に恵まれた。ブログを通して様々な学びや出会いを得て、執筆する好機まで頂いた。
もう8年ではなく、まだ8年。
この8年はただ流れた時間ではなく、しっかりと刻むことができた時間だったとも思うし、ここからまた新しい”何か”が始まる予感もしている。それが何かはわからないけど、まずは今できる範囲で無我夢中にもの作りに打ち込んでみようと思っている。