タイトルはB’zの「My Sad Love」から一部引用。
4月13日の夜、新幹線に飛び乗って、10年ほど前によく遊んでいた旧友と酒を酌み交わした。
元々は14日に大阪の友人(恩人と言ってもいいかもしれない)の結婚式に参加する予定だったが、たまたま最近Twitterでしばらく連絡を取っていなかった旧友とつながったこともあって急遽前泊で大阪に入って飲むことにした。
場所は思い出の地、梅田の東通り。
思い出の地東通りでろくろをまわしてみた。
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今から十年ほど前、僕らはAge of Empireというゲームの対戦を行うIRCチャットのチャネル「あをえ部」に集い、夜な夜な対戦や雑談に興じていた。やがてオフ会でリアルに会うようになり、一人暮らしをしているメンバーのうちに泊まりで遊びに行ったりもした。
その頃よくつるんでいた10歳ほど上の方々がいまどうしているかとか、香川に住むあの人は今何をしているかとかとか、昔話を交えながら近況を聞くにつれて、とても懐かしい想いに駆られずにはいられなかった。
約十年の月日が流れ、各々が各々なりの時を刻み年をとっていた。 何よりもお世話になった方々が健在なことがうれしかった。
余談ではあるが、その頃のホームページ(まだブログは存在しなかった)はあまりにも黒歴史過ぎてとてもお見せできるものではない。
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思い出の地、梅田の東通り。
昔、この場所からほど近い某通信会社のコールセンターでプログラマーのアルバイトをやっていた。紹介してくれたのは、さきほどの「あをえ部」つながりで知り合った10歳年上の方。一緒に働いて、一緒に飯も食いに行った。
週末の夜などに飲みに行っては、カラオケでオールをした。
当時は何故か茶坊主だった。別にグレてたわけではない。
夜の東通りはかなり雑多としているし、キャバクラの呼び込みなども多い。しかし、始発が動き出す時間ともなると、人通りもほとんどなく実に静かなものである。僕はその時間帯の東通りが大好きだった。
当時は20歳になったばかりの頃なので、実に元気でオール明けでもそのままどこにでも遊びに行けそうな気がしていた。
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当時よりもガールズバーが増えたとか、店が変わったとかの変化はあったが、オールをよくやったカラオケ屋も健在だったし、安いからとよく使っていたCharly Brownという店も変わらずそこにあった。
LUCUAと伊勢丹ができて大阪駅周辺はえらく様変わりしたし、HEP NAVIOは阪急メンズ館とかいう名前に変わっていた。一度も行かなかったけど、餃子ミュージアムはなくなっていた。
僕が大阪を離れてから丸7年が過ぎたが、街はそれだけ変化をし、僕らはそれだけ年を取った。
ガジェットからも時間の流れを感じる・・。
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今回参列させていただいた結婚式は、母の教え子でもあり、よくうちに遊びに来てはたくさん一緒に遊んだ一つ上のお兄ちゃんの様な存在でもあり、僕が高校3年の頃に勉強を教えてくれた家庭教師でもある友人のもの。
運動神経抜群で、めちゃくちゃ頭も良い。高校時代はその背中を追っていた。
僕が失恋したとき、バイクで近くの山まで連れて行ってくれ展望台で夕日を眺めながら、他愛もない話につきあってくれた。僕の就職や結婚を我がことの様に喜んでくれ、結婚式の前日にはうちの家族と一緒に日吉の新居に遊びに来てくれた。
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僕は大阪に生まれ、大阪で育った。
再開発される前の大学時代の天王寺の写真
幼少の頃、母親に連れられて難波の南街劇場で「となりのトトロ」のロードショーを見て、その帰りに天王寺の「古潭」というラーメン屋に連れて行ってもらった。
叔母の家に遊びに行くときには、天王寺まで出て阪堺線という路面電車(チンチン電車)に乗ってあびこ筋まで。千里中央の大叔母の家でうまれてはじめてパソコンを触ってそれ以来パソコンの虜になった。
風邪を引くと、今は亡き祖父母が奈良から車で駆けつけて看病してくれた。週末、一人で電車に乗って祖父母の家に遊びに行った。小学校低学年の僕には、橿原神宮前で乗り換えるのも大冒険だった。
はじめてつきあった彼女を自転車の後ろに乗せて、石川の土手沿いの桜並木を颯爽と走りぬけた映像はなぜか今でも鮮明に思い出される。寒い日は彼女がひときわピタリと背中にくっついてきて、ドキドキした。高校2年生の頃のあまずっぱい思い出だ。
何が言いたいという訳でもない。 ただ、大阪には僕の生きてきた軌跡が たくさんあるということを、僕自身が再確認したということなのだと思う。
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懐かしいという言葉ではとうてい言い表せない圧倒的な郷愁の念。
ノスタルジーに浸っていると言われればそれまでだが、 それでも僕は、この様なすばらしい故郷を持っていることを 幸せだと感じずにはいられない。