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新しい世界の獲得と言葉での伝達

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これまでの人生で一度も触れることが無かった世界に足を踏み入れた瞬間、少しの不安と、大きなワクワクが僕の感情を支配する。

最新の技術、訪れた街の風景、自分とは異なる人生を歩んできた人、素晴らしい建築、息をのむような芸術、物の見方が一変するような新しい概念、絶対に自分では紡ぎ出せないと絶望させられる美しい文章。

生きていく中で、思いがけずこう言った人・モノ・コトに出会い、衝撃を受けてきた。

 大人になって、色んな知識を身につけてきたはずなのに、ふとした瞬間に知らない世界があることに気づかされ、自分の中にある世界が一段と広がっていってしまう。

そんな時、広がり続ける世界に果てを見つけられず、少し不安になる。そして、これまでその世界を知らなかったことによる機会損失や、身に覚えのある失敗についてぼんやりとした恐怖を覚える。

同時に、これから旅するその世界での未だ見ぬ出会いに胸が躍り、今までの自分ではできなかった事が今ではできる様になっていることにどこか誇らしい気持ちにもなる。

■新しいのではなく、ただ知らなかっただけ

これまで触れたことのなかった世界に触れたとき、同時に新しい自分の存在に気づく。

何故自分はそれを見て感動するのか。
何故自分はそれを貪るように欲するのか。 

押さえきれない衝動に駆られてのめり込んでいく自分がいて、同時に予想だにしなかったその胸の高鳴りの理由を冷静に考えている自分もいる。そこにいるのは確かに自分なのだけど、今までその存在に気づきもしなかった。

しかし、実際のところ、触れたことのない世界は新しく生み出されたものではない。ただ自分が知らなかっただけで、元々そこにあったものなのだ。どんな時でも世界の有り様が変わるわけではなく、その世界に足を踏み入れ、内にその世界を獲得したことによって自分の有り様が変わっているのだ。

加えて、自分が得てきた知識、重ねて来た経験というフィルターを通して、自分の内なる世界はその有り様を変えていく。同じ映画を観たとして、あなたと私で感想の共有を行う事はできても、お互いが獲得した世界を交換することはできない。

■新しい自分との出会いを求めて

僕が時折美術館に足を運んだり、旅行に行ったりするのは、感動を得ること、思い出を作ること以外に「新しい自分」と出会うことを期待してなのだと思う。両肩をがしっとつかんでがたがた大きく揺するように、僕の心を強烈に揺さぶって新しい自分と出会わせて欲しい。そんな想いが僕の足をその場所へと向かわせる。

他の人が書いたブログを読むのも、自分が知らない世界へと導いてくれるんじゃないかという期待があるからだ。逆に言えば、果たして自分はこのブログで他の人に対して「知らない世界との出会い」を提供できているのだろうかと、とても不安を感じてしまう。

きのう、どこ行った? | お出かけ記&旅行のためのライフハック
何が新鮮で、どう違和感があるのか、自分には何が足りないのか、知らなかったことなど、場所を変えるから見えるものがある。 町の温度や湿度、におい、人の目線など、言葉にしにくいこともたくさんある。 …
新しい世界への扉を開いてくれるブログは貴重ですな

 

実は最近、新しい世界の獲得について書きたいと悶々と考えながら、うまく言葉に出来ずにいた。上記のエントリはシンプルに、それでいて的確に僕が言葉にできなかったことについて書かれており、このエントリを読んだ瞬間になんだか憑きものが落ちたような気分になった。

一言で言えば、僕は自分が言葉に出来ない何かを上手く言葉に表せないのではないかと恐れるあまり、前に進めなくなっていたのだ。思った事を思ったまま、感じたことを感じたまま書いて、もしも共感が得られなかったらどうしよう(自分の獲得した新しい世界を否定されたらどうしよう)と、知らず知らずの内に怯えてしまっていたのだ。

■言葉にすることを恐れてはならない

例えば、かつて旅した松山の道後温泉本館の大広間を吹き抜ける風の心地よさも、うだるような暑さの中水田と青く茂った稲の香りが複雑に絡まったあの空気感も、言葉で伝えることはとても難しい。

これらは五感をフルに使わなければ感じとることができないし、確かにそれは僕にとって「心地よいもの」ではあるけど、あなたにとっても心地よい物であるとは限らないからだ。言葉から思い起こされる情景は、あくまであなた自身の記憶からであり、その情景から思い起こす感情もまた、あなたの経験からもたらされる。

自分の感性というアンテナで捉え、知識や経験というフィルターで獲得した新しい世界。これを伝えることは至難の業かも知れないが、そこに至る扉である経験や情報を言葉で伝えることは幾分かは容易い。

そこから何を感じるか、それを読んでどういう行動をとり、どんな世界を獲得するかはその言葉に触れた人の裁量である。結果として自分と違う世界を獲得したとしても、それはそれで正解だろうし、その結果だけでも言葉にした意味は十二分にあったと言えるのではないだろうか。

■最後に

このエントリを書くに当たり、未だ世界中で多くの人が命の危険と隣り合わせにある貧困や紛争といった問題についても言及すべきか悩んだのだけど、どうしても本文中に組み込んでうまくまとめることができなかったので、ここに記させて頂きたい。

これらの問題からは決して目を背けてはいけないと思うし、これらの問題に触れる度に自分に出来ることはないかと悶々とする。しかし、自分はこれらの問題の全てを知っているわけでもないし、問題一つ一つについて詳しく知っているわけでもない。できることにも限りがある。

だからまずは関心を持ち、知ることなのだと思う。今どこで何が起きているかを知れば、次に何をすべきかが見えてくるかもしれない。僕らが今できることはごく限られているかもしれないけど、何もしないよりは今やれることをやる方が100万倍マシだろう。

まずはこのあたりから、まだ触れたことの内世界に一歩足を踏み入れてみては如何だろうか。 

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