Beckの活動&SNSまとめはこちら

普通と自由とゆとり世代

IStock 000024272073XSmall

タイトルは僕が嫌いな言葉を並べたモノだ。
もう少し具体的に書くと次の3つ。

1.普通のサラリーマン
2.会社を辞めて自由になる
3.ゆとり世代 

特に1と2がセットで使われるともう最悪だ。「普通のサラリーマンが会社を辞めて自由になる52の戦略」とか述べられた日には絶望的な気分になる。

理由は簡単で、前提としてサラリーマン(企業に努めている人)というのは普通の存在で不自由であるという考え方がどうにも好きになれない。普通のサラリーマンという言葉が「私はかつて際だった特技を持たない普通の勤め人であったが・・・」という枕であったとしても、やはり好きにはなれない。

また、どうように「xx世代」という言葉、特にゆとり世代という言葉でもってその年代の若者をあなどる風潮はことの他に愚かなことであると思う。自分の世代も含め、上の世代にいたるまで優秀な先輩上司もいれば、残念な先輩上司もいる。対して、ゆとり世代と言われる若者の中にも驚く程の秀才もいれば、実に手の掛かる後進もいる。

かつて「実力主義」云々をもてはやしていた人々が、個人の人格・能力では無く、世代年代の教育や時代背景で以て人物評をするというのは、実に滑稽な姿であるとすら思う。実際の所それ程多くの人がそんなことを考えているわけではないだろうが、「ゆとり世代は云々」などと侮っている者はいずれ足下をすくわれるだろう。

■自由独立の気風とプロフェッショナルマインド

要は何が普通で、何が自由かという定義の問題である。 

組織に属する者の内にも特異な能力を持つスペシャリストも、決してルールや慣習に縛られず社内の面倒ごとを鮮やかにまとめあげて己が望む方向へと物事を進める自由人も存在する。ただ、万人には真似できぬと言うのも確かに真実だろうし、組織の中より外の方がよりしがらみが少ないこともまた真だろう。

毎日の通勤も必要だし、スーツを着て定時に会社にいなければいけない。生産性が皆無の会議に招集されてイライラすることもあるだろう。そういう不自由さは確かに存在する。だからといって会社組織に属していること則ち不自由(そして不幸)と片付けるのは少々乱暴に過ぎるのではないかと思う。

会社組織というのは、個人では持ち得ないような多くのリソースを利用して目的を達成することができる。庶務雑務の煩わしさや、(当面の)経済的・精神的リスクを手放した上で業務に集中できるというメリットもある。社会基盤を支えたり、科学技術の発展に益するためには、それができる場に身を置く必要もあるだろう。

つまるところ僕は、その人が自由かどうかは通勤やスーツ着用の有無で決まるわけではない、と強く主張したいのだ。

ではお前の自由とは何かと問われれば、自由独立の気風を持ち続け、慣習に縛られずに打ち手を考えられ、プロフェッショナルとして自らの成し遂げるべきことに誇りを持つことだと答えるだろう。つまり、自由・不自由の決定要因は、環境にあるのではなく、自分自身のあり方にあるということだ。

人を助ける仕事をしたいと医療や福祉の仕事に従事する人、子供たちの将来を真剣に考え教師という仕事に情熱を燃やす人、社会の平和を守る仕事がしたいと警察官になる人、科学技術の発展に寄与したいと学者の道を選ぶ人、社会基盤を作り支えたいとそれができる企業に属する人・・・例を挙げ続ければ切りがないが、果たして自らの仕事に誇りを持つ彼らが不自由だと、一体誰が言えるのだろうか。

■自らを普通と称す者は、自らを普通にせしむる

「普通のサラリーマン」という言葉は二つの意味で好きではない。
一つは自らを普通と称している点。もう一つはサラリーマンという自己表現。

謙遜の意味で「普通です」と言うのは日本人の奥ゆかしい美徳のようなものであるとして、実際に「私なんてただのxxxだから」などと諦めに近い意味合いを含んでいたり、「あの人は特別で私は普通」などと逆向きの特別意識を持っているのだとすると注意が必要だと思う。

自分の事を「普通」、周りが「特別」などと思っている内は、いつまでも自分の思う「普通」からは抜け出せない。なんせ、諦めてしまっているのだから。努力次第で自分が「特別」だと思っている方に近づくこともできるし、自分がやっている領域で研鑽を積み、自分が得意なことを磨き武器とすることで「その道のプロ」へと近づくことができる。

サミュエル・スマイルズの自助論の冒頭にある「天は自ら助くる者を助く」という有名すぎる格言は、天は自分の力で努力するものに成功を与える、という自助努力の大切さを述べたものだ。自らを「普通」に止めるのも「特別」に近づけるのも、自分次第ということなのだ。

もう一つ是非注意を払っておきたいのが、自らを何者と考えるかということだ。サラリーマンという言葉自体は企業に雇用され給与を支払われる「働き方」の一つであり、決して職業や仕事の内容を表す言葉ではない。とすると、自分が何者かと問われたとき、サラリーマンと答えるのはあまりにも寂しい。

例えば僕は、システムエンジニアで、得意な領域はキャリア向けのOSS/BSSであったり、サーバやネットワークのインフラ周りだったりする。しかし、コーディングスキルはきわめて低い。こういった職業や職能と「働き方」は全く別物で、僕の職業や職能はフリーランスとサラリーマンのどちらの働き方も選択することができることがわかるだろう。

また、自分の人生を構成する要素は仕事だけではないはずだ。家族との時間を大切にしたり、ボランティア活動を行っていたり、少年野球のコーチをやっていたり、料理が好きだったり、世界中を旅する趣味があったり、ブログを書いていたりと、色々な顔を持っているはずなのだ。

願わくば、自分のことを「普通のサラリーマン」などというおもしろみのない一言で片付けず、あなただから出来ること、あなたが貢献できていること、あなたが大切にしていることをちゃんと認めた上で自分が何者かを捉えて欲しい。

■実直に生きるあなたはカッコイイ

僕はノマドだってフリーランスだって生き方・働き方の選択肢としてアリだと思っている。むしろ、僕もそういった働き方を好むタイプの人間であると思うし、優秀な人であれば会社に属しているいない(口座があるとかないとか)に関わらず一緒に仕事をしたいと思う。

社会が多様性を許容し、悪しき慣習による非効率を正すことで人々の生き方、働き方にこれまでなかったものが生まれること自体はすごく素晴らしい事だ。自由とか、自分らしさを大切にすること自体になんら否定の考えは持っていない。

ただ、時折「サラリーマンは不自由で不幸」と言い「だからフリーランスで自由に生きよう」みたいな主張をされている方がいることに少なからず残念な気持ちになることがある。そういう主張を見る度に、敢えてこういう記事を書かなきゃって思いが強くなっていった。

どんなことがあっても、人が誇りを持って望んでる仕事であったり、家族の為にとか、仲間を大切にしたいとか、地域社会に貢献したいとかっていう想いの部分は尊重すべきだと思うし、僕自身はそういう生き方ができる人を心から尊敬している。

仕事というのは必ずしも望んだことができるとは限らないし、花形ではない地味な裏方仕事に徹する場面だって多いと思う。変な制約や辛い事、理不尽なことだってあるだろう。うまくできない自分にいらだったり、失敗して死ぬほど悩むことだって珍しいことじゃない。

これらの困難に泥臭く立ち向かい、家族や仲間のために労を惜しまず、時には失敗に心打ちひしがれながらも前に進み続けられる人は文句なしにカッコイイ。

器用な生き方ではないかも知れないし、時には自分を押し殺す必要さえあるかも知れないけれど、そういう実直な生き方をする人を僕は心の底から応援したい。他の誰がなんと言おうとも、僕は誇りを持ってこういう生き方を選択する人を不自由だと思わないし、自分らしく生きれていないとも思わない。

そんなわけで、僕はこういう考えのもと、きっとこれからも額に汗して働く日本中の仲間に向けて「一緒に頑張ろうぜ!」とエールを送り続けるべくブログを書き続けていくのだろうと思う。

参考文献

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください