【雑記】イツカノジブン/色を変える世界

2002 0923 174853AA

大阪の片田舎に生まれ育った。

大阪の中心部から電車で30分〜1時間程度の郊外といえば聞こえは良いが、大学に入学する2001年頃まではコンビニも無かったし、子供の頃から今に至るまで町自体は発展も衰退もしていない。

小学校での地域学習では「大都市大阪の衛星都市」の一角だと教えられた。

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1982年生まれの僕は、1990年代に小学校〜高校という多感な時期を過ごした。インターネットもまだ一般的でなかった時代に雑誌やテレビだけが外の世界を知る手段だった。

子供の頃に大好きだったガンダムやテレビゲームについての情報に飢えていて、そういった名前の付く番組を新聞のテレビ欄で見つけては嬉々として視聴していた。子供のおこづかいでは毎週ファミ通は買えなかったので、立ち読みして、どうしても欲しい号の時だけ買っていた。

小学生時分、ゲームプログラマーになりたいという夢を実現するためにどうしたらいいかわからなかったけど、きっとTVで流れているHALや西沢学園といった専門学校に行けばいいのだろう、程度に思っていた。

あの頃はただ何かが好きと言うだけで、夢は夢と言うだけで、それを実現するということについてはピンときていなかった。夢を実現するために勉強していたと言うよりも、親の教育方針・・もっと言えば親の機嫌を損ねないように勉強をしていたという感じで、そこそこの進学校からそこそこの大学に入るという選択をしていた。

勿論、その過程に於いてはある程度の自分の意思はあったと思う。それは「どうせなら自由な校風のあの高校が良い」とか「将来起業したいから経営学科がある大学へ行こう」という感じで、親から希望された進路という枠の中から自分にとっての最善解を選んでいたという感じでもあった。

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しかし、その日々の中でも僕の中には着実に変化の芽が育っていた。

漫画「ドラゴンクエストへの道」やドキュメンタリー番組及びその書籍版「新・電子立国日本」と出会ったことで、夢はより明確になり、中村光一や堀井雄二、スティーブ・ジョブズやビルゲイツに強い憧れを抱くようになった。

中学校に入った頃にはじめて自分のPCを購入し、プログラミングをはじめた。小さな田舎の町だったのでプログラミングやゲーム作りについて語り合える仲間はいなかったが、その内にインターネットをはじめ、そこで知り合った人々と語らい、共に創作活動を行うようになった。

大学時代にはプログラマーのアルバイトをしながら「IT」のスキルを高め、厳しいことで知られるとある助教授のゼミに入ったり、ベンチャーや企業経営に関わる授業はなるべく受講して「経営」の知識を身に付けた。

社会に出てからはかなり精力的に読書もしてきたし、仕事から多くのことを学んできた。自分にとって強みとも言える分野を追求し、スキルを磨いてきた。自分にできることが増える度、自信を深めてきた。

いくつかの運命的な出会いと、実際に自分が起こしたアクションと、身に付けた知識やスキルとが有機的に結びつく度に僕の中で世界の色が変わってきた。曖昧模糊としていた事柄がスッキリと見える様になり、どうすればいいか分からなかったことに自信を持って答えを提示できるようになった。

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少し話が変わるが、中高と続けていたバレーボールからも実に多くのモノを得てきた。

今も続く素晴らしい仲間との出会い、彼らと過ごしたかけがえのない思い出、本気で打ち込んだことで得られる喜び、悔しさ・・これらがなければ僕の人生は今よりもっと味気なく、僕の性格はもっと冷めたモノになっていただろう。

今でも思い出されるのは、高校2年の夏、大会を目前に控えていたある日の練習で足首を捻挫したこと。全治1ヶ月半というのは捻挫の中でもかなり重傷な部類に入る。夏の合宿を経て、チームの中でもそれなりにコンビネーションバレーが構築できつつあり、セッターである自分としても次の大会をとても楽しみにしていた。

自分で靴を脱ぐこともできない程の激痛が走り、そのまま顧問の教諭に連れられて救急の整形外科に搬送された。ギブスで足を固められ、松葉杖で歩行して患部を守り、鎮痛剤を服用して痛みを紛らわす。医者からは当然ドクターストップを掛けられた。絶対安静とこまめなアイシングでなるだけ治りを早くする努力はするが、試合は絶望的だと告げられた。

翌日学校に行き、チームメイトに怪我の具合を報告した時に、中学から一緒にバレーを続けてきたエースに言われた言葉がガツンと来た。

「大会はお前がおらなあかんねん。絶対治して戻ってこい!」

その時、僕の中で世界の色がガラリと変わった。その日は家に帰って号泣した。今まで自分に「下手くそ」としか言わなかったエースにこうまで言われて試合に出れないことの悔しさと、ここまで積み上げてきたことが無駄になるんじゃないかという喪失感が入り交じってわけが分からなくなっていた。

ひとしきり泣き崩れた後、行動に一切の迷いが無くなった。部屋で安静にして、ひたすらアイシングに専念し、医者に掛け合って「取り敢えず、痛み止めを打ってテーピングの固定で試合に出てみる。」方向で調整した。

1週間程度の期間で医者からも「驚異的な回復力」と言われる程症状は改善していた。テーピングでガチガチに固めていても走る度、ブロックでジャンプする度に痛みを感じはしたが、それを上回る喜びが痛みを打ち消した。蓋を開けてみると、その大会の予選を突破し、本戦でも格上の相手と良い試合を演じていた。

そこから引退までの約1年、僕にとってのバレーボールはそれまでの5年間とは全く違うものになっていた。大学進学後、母校に戻ってバレー部のコーチになったのも、全てはこの出来事からはじまったのだと思う。(人生に多くの教訓を与えてくれたコーチ時代の話は今度ゆっくり書きたい)

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人は生きる中で様々な事を知識として得たり、経験したりする。その度に、少しずつ自分の中で世界はその色を変えていく。世界その物が変わるのでは無く、世界を見る自分が変わるのだ。

また、世界は僕らがどうあがこうとも動き続けるし、僕らのことなんておかまいなしにその様を変化させる。だけど、その世界に何を見るかは人それぞれ、もしくは同じ人でもその時々で異なってくる。

昔は夢物語だったことが、今は現実の目標として捉えられている。
絶対に無理だと思っていたことが案外簡単なことだった。

毎日同じ事の繰り返しで、つまらないとすら思っていた日々が
実はかけがえのない大切な日々だと気づいた。

世界の色が変わる瞬間。
それは時に劇的に、時に少しずつ着実にやってくる。

それは僕らの思い込みとか、世間のバイアスとか、大人たちの陰謀なんてものではない。僕らが生きる中で、経験し、学ぶことでしか世界の色は変わらない。

もしもあなたが今、目を背けたくなるようなひどい現実や、逃げ出したくなるような辛い状況においやられていたとしても、そこを乗り越えた先には必ず違う色の世界が待っている。だから、もう少し、今は踏ん張ってみてほしい。

何か目指している事があって、でもそれは叶わないと思っているのだとしたら、心配せずに兎に角前に進んでみてほしい。経験を重ね、知識を得ることで不可能は徐々に可能へと変貌を遂げる。何もしなければ、何も変わらないのだから、兎に角前に進んでみてほしい。

僕はまだ30年そこらしか生きていないけど、今ままで何度も僕の中で世界は色を変えてきた。だから、自信を持って言える。この先あなたが前に進み続ける限り、あなたの中で世界の色は必ず変わると。

参考図書

夢をかなえるゾウ 文庫版

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